その五
ここに新円寂仁徳啓應居士こと故大塚啓吾殿、
昭和十三年九月四日、八王子は当地当処に大塚家
の長子として生を受く。
幼くして母亡くすことなどあり。またいささか
に事情ありて、祖父栄二郎殿の家にて育まれしも
のとか。
のち八王子高等学校に学びて、当初家業なる農
業・養豚業を手伝いたるものの、生来の機械好き
なれば、某自動車修理工場に職を得て技術を学ぶ。
昭和三十五年、故人二十三才、近隣なる某社に
事務員として働く友江殿と出逢い結婚、而して家
に一男一女を挙ぐ。のち夫人の協カありて独立、
大塚自動車修理工場を興したるものなり
爾来、盛時には数人の社員雇うことあるといえ
ども、殆どは独力でこれをこなし、夜遅く十一
時、十二時までも工場の灯りともりたるとか。
故人、酒もタバコもやらず真面目一方、かと
いって決して堅物にはあらず、誠に心温かき人なり。
事務所のうちに常に客の影途絶えることなきは、
その人柄慕う人の多かればならん。
趣味となすはライブSLとか、生来の機械好き
こうじて、幾たびか自作のSLに子供ら乗せて走
らせたることもあるらし。
また消防団に籍をおきて活躍、近隣の火災に窓
蹴破りて消火に務めたる父の姿、幼き友和殿の心
にあざやかなり。
友和殿、家業の跡を継ぐべきか迷いたる時、父
曰く、自らも好みたる道選びしものなれば、友和
殿の望みたるを道を行けと、さればと現在は杉並
区の天沼中学校の美術教師を、その天職となした
るものなり。
故人五十の峠こえし頃とか、いささかに四大乱
すことあり。以来妻友江殿、常に夫君の健康に気
を遣いてすごし来たるも、頑健にみえたるその身
体に宿病重くひそみたるらし。四年ほど前、不調
を訴え、徐々に手足、我が意のままに動かすこと
能わざる事態に及び、一年半ほど前自動車修理工
場これを廃すに至る。
病状なかなかに改善されず、時として意識危うく
入院すること度々となりぬ。友江殿これを憂
いて一日も永き長生を願い、心くだきて万全の介
護をなす。
その甲斐もなく、三週間ほど前、再入院、医
師より三ヶ月の命との宣告あり。されど、ある日
の昼近きに至り恩一愛の家に別れを告げ、六十八才
を一期として、北邙の風にゆらりゆらめいて黄泉
の客となる。
時にあたりて、故人の来し方に思いいたせば、
幼き頃の母の愛なき生い立ちに、我が子だけはか
くなる思いさせじと願いたる心優しき父なり。
かくて仕事に励みつつ、ライブSLに極上の楽
しみを見出し、同行二人と歩みたる四国八十八カ
所も、あと十ヶ寺を残すのみ・・・
つい先日のタベ、ひさかたに大好物のソバを味
わい、あすは一時帰宅などと話したるも夢か、容
態急変す。一度は持ち直したるかに見ゆれども、
終、の直は下り坂、いま一度、愛孫一成殿に会いた
しの思い背に、旅路急ぎたろらし。
友和殿、別れに際し語りたる、故人をして兄で
あり、友であり、仲間である父、世界一の父なり
と。そは子が父に贈りたる素晴らしき勲章なり。
いくつかの春秋残してのいささか早き別れとはいえ、
一家・一門のかくも温かき思いに送られての旅立ち
なれば、正に大往生なり。