その四
ここに新円寂慈雲多宝信士こと故細川貞一殿、
大正十六年九月十一日現住居にほど遠からぬ国道
十六号沿いに細川正次郎・ハル夫妻の長男として
生を受く。
今は昔、浅川、川口川の流れ清く、緑濃き田園
風景のなか四男三女の兄弟のうちに、おおらかに
育まれしものなり。
十七才の頃より、一人前の農夫として家業に励
みつつ、やがて終戦間近のこと故人にも赤紙舞い
来たるらし。かくて出征、浜名湖なる浜名海兵団
に配属さる。のち伊勢神宮防備隊に加わりたる
時、隣接する同部隊某中隊の兵舎、艦砲射撃の直
撃弾を受け中隊全滅、冷や汗十斗の思いすると
か。紙一重の差にして、九死に一生得たるものなり。
また一説には、召集の折、出征軍人の姿見て、
「兵隊さん、戦争は終わったのよ」と云われたる
も、軍令なれば独断で帰る訳にもいかず某所に赴
くとか。今となりては、定かならざる事多し。
とにもかくにも命永らえ、同年十月復員す。除
隊に際し、毛布・鮭缶・米などの分配あれど、農
家なるを以て米は辞退す。されど家にたどりつけ
ば米びつは空。幸いにも田んぼに稲あれば、その
日のうちにこれを刈りて休む間もなく脱穀、ほっ
と一息つきたるものなり戦後の混乱あるといえ
ども、田畑あるありがたさなり。
やがて昭和二十四年十二月、縁ありて一才年下
の初代殿と出逢い結婚、のち家に三男を挙ぐ。さ
れど長男和也殿を十二才で逆修を見、涙する日々
あるとか。
故人その資性、誠に温厚、穏やかにして、優し
き人なり。田畑をこつこつと耕し、自然の中に身
をおきて、欲のなき人なりただこうと思いたる
事には頑固、いわゆる一刻者にてもあり。
自然と共にすごしつつも、殊にも動物をいとお
しみ、牛を飼いて乳をしぼる。乳搾りの最中に温
かき牛の腹に顔あてて居眠りすること、度々と
か。牛も心得てじっと動かず、なすがままにされ
しもの。大いなる信頼あればならん。
されど人手たらぬ時、ホルスタインを農耕用に
と田など耕さんとし、ちと目離したるすきに逃げ
だし、一足先に牛舎に戻りたることなどあり。
牛だけに、モーかなわんとモーしたるとか。
またある時、畑耕す折のこと近くにヒバリの巣
あり。夜盗虫などみつけてはそのあたりに放りけ
れば、やがてヒバリこれを餌となし、ついにはそ
の手より直についばみ、やがては数百メートル離
れた畑耕す故人をみつけ、虫などねだりたるもの
とか。近隣の農家の主婦、文子殿語りたる、自然
と共に生きし故人の人柄偲ぶよすがなり。
また時には八南酪農組合の最後の組合長を務め
その解散にあたり、多忙にして夏野菜の苗植える
能わざることもあり。およそ、他のためを思いて
なすなり。
かくの如くに人生中道をすごしつつ、内孫三子・
外孫四子にも恵まれ、誠に幸い多き年月すごし給
いしものなり。
嗣子はじめ一家一門、この幸いの永遠にと思
い、またその寿の百年を願うといえども、三年ほ
ど前、いささか四大乱して病舎に伏したり。され
どそののちは大よそ家に過ごし、老いを一養いてあり。
徐々に食も細くなりて、
やがて八月十三日再び病舎に伏し、あるタベ、
恩愛の家に別れを告げ、北邙の風にゆらりゆらめ
いて黄泉の客となる。
時にあたりて、故人の来し方に思いをいたせば、
農家の後継ぎとして生まれ、田畑を耕し、牛
を飼いて乳をしぼり、これをいとおしむ。
されば牛も故人になつき、他の人の云うことには、
したがうわざりきとか。自然と共に暮らして、大地
を耕す。
農夫大地耕すとて、誰かヒバリを友となすや。
恵れし愛孫七子をいとおしみ、また三ヶ月ほ
どなる曾孫愛羅ちゃんをこわごわ抱きて、連綿と
続く命の畔を確かめ、良き冥土の土産となす。
一足先にみまかりし弟御正夫殿を追いて今日、
浄らな終の道を行く。
御年八十一才、まさに大往生なり。