その三
ここに新円寂成徳昌景信士こと故多田俊夫殿、
大正十六年三月二十一日、当八王子は散田町に多
田俊光、ミネ夫妻の長子として生を受く。幼時三
歳の頃とか、一家居を現在地に移したるものらし。
し
やがて尋常小学校卒業後、家業示なる建具師を志
し、父を師となしその道に入るも、世の厳しさ学
ぶは他人の飯食う他に道なしと、三鷹なる建具師
の門叩きたるものとか。丁稚奉公、聞きしにまさ
る辛苦多き年月すごしたるらしル
時は戦雲暗くこの国を覆い、戦争も末期近く、俊
夫殿にも赤紙舞い来たりて出征、陸軍にへ隊す。
されど幸いにも内地に配属、多くの若者ら南の
島々、硫黄島はたまた沖縄に赴きて、無事復員せ
るもの極めて少なきを思えば、誠に強運の人とい
わざるぺけんや。
出征前の秘話、生死わからぬ門出なれど、万一生
きて復員せし折は是非にも嫁にと、その後、妻と
なる浩子殿の両親に申し入れたるものらし。その
想いあれば、神仏も故人を見捨て給わず命救いた
るものなるか。
かくて戦終わる日の来たり復員す。戦後の混乱あ
るといえども、自宅より西八王子駅が見えしとい
う焼け野原の街並みも、バラックから徐々に復
興、本格的な建築にと移りゆき、されば家業、時
を得て大いに繁栄す。
やがて昭和二十七年、故人望みたるごと大月に住
まえる、たまたまに同姓なる宮大工多田家より、
浩子殿を迎え結婚。のち家に男子三子を挙げしもの
なり。
かくて家業に励みつつ、幸いなる人生中道を送り
けり。その生涯に幾多の仕事なすといえども、いさ
さかの誇りとするは顧客よりの苦情一つだにな
きことなり。仕事の合間にも顧客の相談など何く
れとなく応じ、その技術はもとより人柄もあいま
ちて、大工棟梁の信頼厚く、茶室、医者の家など
と良き仕事に恵まれたるものなり。
また三多摩で腕良きこと一、二を争う建具師あり。
浩子夫人曰く、侍とよばれし職人とか、他の
業者にては御する能わざりし者なり。かくなる者
ら二人もかかえたる、いかに俊夫殿なる人物のふ
ところの深さ、誠に大人と呼ぶに値する親方なり。
常日頃、父君の写真を飾りこれを崇める、あたか
も儒者の如くなり。一家一門これを敬いて、その
百年の寿を願いつつも、二年ほど前やや体調を崩
すことあり。しばしのち現役復帰するといえど
も、この五月、八十路の声聞くに及びてさすがに
四大を乱し、爾来幾度かの入退院に老いの身を養
いつつあり。
思えばその生涯、父より継ぎたる家業大事と、こ
れに励みてその道を極め、良き後継者をも育成
す。かくあれば人徳自ずとそなわり、これを慕う
もの一門、同業のみにあらず誠に多し。
愛子等互いに相和せば、即ち和気それぞれの家に
満つ。愛孫また祖父を慕い、倣いて木太刀を学
ぶ。祖父もこれに応えて、内孫の成人式を自らの
天寿と願うも、定命また改むることなし。
愛孫友樹殿、その身にすがりて旅立ちはばまん
とすれども、ある昼下がり八十一才を一期として
恩愛の家に別れを告げ、北邙の風にゆらりゆらめ
いて黄泉に赴く。愛児愛孫等一門の別れを惜しむ
暖かき心に送られての別れなり。正に大往生とい
わざるべけんや。