その二
ここに新円寂玉錬院鳳扇亀翁居士こと故久保田亀太郎殿、大正四年九月二十四日、八王子は中野上町なる現在地に、久保田文太郎・ヌイ夫妻の長男として生を受く。
幼き頃を両親の慈愛のもと大らかに育まれつつ、然るべき学業終えしのち、某撚糸工場に奉公なしたるものらし。往時の事ども、今は昔、定かならざること多し。
のち昭和十二年、故人二十二才、撚糸業にて独立す。翌十三年、縁ありてフミ殿と出逢い結婚す。而して家に三男・一女を挙ぐ。またフミ殿の実家の生業、古物商なるを以て、撚糸業と兼業するに至る。
やがて戦雲暗くこの国を覆う時代の来たりて、太平洋戦争開戦す。のち戦況悪化するに従いて、徴兵年齢も徐々に上がり、既婚者とて例外はなし。かくて亀太郎殿のもとにも、赤紙の舞い来たりて、昭和十八年某月、故人二十八才、出征、北海道方面に配属、宗谷に乗艦す。戦後、南極観測船となる、かの宗谷、当時は海軍籍を有し、兵員及び物資の輸送の特務艦なるとか。
当初は北方にて輸送業務をなすも、太平洋戦争開戦後は、トラック・ラバウル方面に移動すること多し。かくなるうちにも、宗谷強運、運つよき船なり。
亀太郎殿出征したる昭和十八年一月、僚艦二隻と南方を航行中、敵潜水艦の魚雷攻撃を受け、二隻は沈没、宗谷被弾するも幸いにも不発、のち護衛の駆潜艇の爆雷により、当核潜水艦は撃沈さるとか。
また回避航行中に座礁し、空爆を受け船体損傷、乗員数名死亡の損害あれども、翌日の満潮に離礁、救命ボートの乗員再び乗艦、かろうじて難逃れしこともあり。その後敗戦間近、横須賀のドックに係留中、敵襲にあい機関室にガソリンタンク落下、幸いにも爆発免れるなど、数々の伝説のある船なり。
されば南極観測船として、候補に上りたる時、当時の日本まだ貧しき時代、宗谷はかなりの老朽船、されどその船暦の強運を見込まれて、採用されたるものらし。海に生きる男達の心、垣間見る思いす。亀太郎殿も宗谷の乗員なりしこと大いに誇りに思い、のちのちまで語り給いしものらし。
これを大修理して、砕氷船に改造、果たして南極にたどり着けるかと案ずる人々多いなか、乗り出したる由、のちの物語は今日多くの人知るが如くなり。
話戻りて、亀太郎殿も軍用輸送船宗谷に乗り組み、宗谷と共に、艱難辛苦の末、幸いにも、室蘭港にて、無事、終戦を迎えたるものなり。その後、半年ないし一年ほど、小樽・樺太間の引揚船の乗員勤めたるのち復員す。
さて復員してしばし撚糸業と古物商を生業となすも、昭和二十六年にいたりて古物商一本に絞る。業務となすは製鋼原料として重要な廃鉄材の収集、加工処理となし、徐々にその規模拡大す。
テレビ放送が始まったごく初期、まだ街頭テレビに人々、見入っていた頃、ムラウチ電気よりテレビを購入、力道山はじめプロレス全盛時代、大勢の隣人押しかけ、久保田家の子供達見ること叶わず。また人の重みに床抜けることもあるとか。亀太郎殿の人情味ゆたかな面倒見良き性格のあらわれのエピソードなり。
古物商としての形態も廃鉄材の収集のためのリヤカーを業者に貸与するなど、徐々に問屋化し、鉄工場なども設備不十分なる時代、資金融通するなどして、互いの発展に貢献す。
その傍ら、民謡踊り美扇流を学び、ついには名取りにまで上りつめ、八王子祭りの民謡流しなどにて指導的立場なるとか。
また出湯の宿を好みて、箱根・強羅また伊豆長岡・熱川など近場の温泉くまなく訪れしものらし。かくの如くに物見遊山楽しむといえども、故人、酒・たばこ・賭け事一切なさざる人なりき。
家業に於いては、愛児らを後継者として育み、機熟したとみるや、責任を長男義男殿、次男武夫殿、三男貞夫殿と次世代に任せ、六十代にかかりたる頃リタイアす。また長女絹江殿には旅館業経営を任せるなど、子ら大切に思う心のあらわれなり。
すべて任したる後は、自らを隠居の身と悠々自適と老いを養いつつも、平成二年、永年連れ添いたる妻フミ殿を鬼籍に送ることあり。その後は心に悲しみを秘めつつも、日々を飄々と送り給いしとか。
五年前、三年前には、いささかに四大乱して、危篤の報せ受けることあるといえども、かの大戦に乗艦せる宗谷にあやかりたるか、ことごとくこれをしのぐ。その間にても故人の心なぐさめるは、遅き子持ちの貞夫殿の三人の子ら、日曜ごとに家訪れるを心待ちて、故人購いたるブランコなど、家中遊具だらけのなか、孫ら遊ぶ姿ながめるを至上の喜びとなしたり。
されど九十五才を迎えたる一年ほど前からは、さすがに老いの影しのびよりて、この八月末に病舎に伏す。一門、心尽くしてその恩に応えんと、見舞いとぎれることなく、また介護に励むといえども、寄る年波の故にもあらんか、命の灯徐々にうすれゆく風情、かくてある朝九十六才を一期に北邙の風にゆらりゆらめいて黄泉の客となる。