その一
ここに新円寂花章敏永信士こと唐澤敏弘殿。昭和三十年十月一日、八王子市は平岡町に唐澤清三郎・アイ子夫妻の三男として生を受く。幼き頃を両親の慈愛のもと大らかに育まれたるものなり。やさしくおとなしげな子供なるとか。小・中学と地元にて学び、これを卒業ののち、法政第一高等学校に進学、剣道部に三年間在籍、これに励みて高校生活をたんのうしたるものらし。のち法政大学は経済学部に進み、かたはら応援団に入団、四年生に進学と同時に応援団長に就任す。
当時法政大学野球部、六大学で四連覇するなど大いに盛んなる時代、されば唐澤敏弘、花の法政大学応援団長、正に旭日昇天の勢いに、一世を風靡す。
かくて法政大学応援団、テレビ・雑誌に引く手あまた、当時の映画「愛と誠」あたかも敏弘殿を題材になしたる如くなるとか。さて、その頃のある日のこと、現在の西東京市なる武蔵野女子短期大学に在学中の章代殿、実家の近くなる静岡高校出身の選手応援のため、神宮球場訪れ、彼を見そめ猛アタック開始す。
才色兼備の章代殿の攻勢にこれを防ぐ手立てなく、ついに落城す。美男美女のカップルの誕生なり。
のち敏弘殿、昭和五十三年法政大学経済学部卒業と同時に、リンテックの前身、不二紙工株式会社に入社、大阪支店に配属さる。
かくて方や大阪、方や東京と遠距離恋愛三年半、その後昭和五十六年、故人二十六才めでたく華燭の典、而して家に一男一女を挙げしものなり。
その後敏弘殿、静岡支店、この時二子誕生、次横浜支店、この時代に子どもたちの学校の関係事由により、母と子ら以来横浜の社宅に住まう。後の名古屋支店勤務より敏弘殿単身赴任す。
再びの静岡支店では支店長を務め、大阪に戻りてよりは営業部長を拝命せしものなり。
一方、故人の人柄のゆえもあらんか友垣の輪広く、また故人を慕う後輩も多しとか。
殊にも高校剣道部よりの親友 原秀雄殿、法政大学応援団では副団長をつとめ故人を助け、生涯にわたり、良き友良き相棒なりき。また家にありては妻を愛し、子等をいとおしみ、決して怒ることなき心優しき人なりき。
かくの如くに良き家族、多くの友らに恵まれて、幸いのうちに人生中道を過ごしつつあり。
平成二十一年四月のある日、風邪のせいかと思いやや熱だして社を休むことあり、近所のコンビニに買い物にでかけた折り、何故か転倒し、意識不明。救急車にて病舎に救い求めるといえども、意識戻らず。かくて救急病院に一ヶ月半、されど病状好転する能わざりき。
のち横浜の牧野記念病院に転院、妻 章代殿これを案じて、決して日を置くことなく介護に励み、ありとあらゆる手立て尽くすといえども、再び目覚めることなし。
そのうちにも、長き闘病生活に命の灯徐々にうすれ行く風情。ある日、原秀雄氏友人数人と語りあって見舞いに病舎訪れることあり。そを待ちたるが如くにその夕べ、齢五十六才その華々しき人生を駆け抜けるが如くに閉じ給いしものなり。
時にあたりて故人の来し方に思いをいたせば、昭和五十二年、六大学野球にて法政優勝の神宮球場より市ヶ谷の母校までのパレード。黒の応援団引き連れし、白羽織白袴の団長敏弘殿の姿、章代殿の心より消えることなく、子等から孫へと永遠に語りつがれん。